全日本学生競技ダンスの歴史 1948年〜
年 | 委員長・理事名 | 歴史事項 |
1948年 | 不明 | 関東八大学主将連絡会議始まる (東京大学、慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、立教大学、工学院大学、日本大学) |
1949年 | 不明 | 日本学生舞踏連盟創立 |
初代会長に東大教授(当時)故星野昌一先生が就任 | ||
学生ダンス基本5原則制定 | ||
第1回関東学生舞踏選手権大会(関東大学戦) | ||
初の学生主催競技会(品川のパラマウント舞踏場) (慶應義塾大学、立教大学、早稲田大学、千葉大学、明治大学、東京大学の順位) |
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1950年 | 不明 | |
1951年 | 不明 | |
1952年 | 不明 | |
1953年 | 不明 | |
1955年 | 不明 | 第1回東京六大学舞踏選手権大会(新橋フロリダ) (出場数:ワルツ10組、単語15組)12月17日 |
1956年 | 不明 | 第1回全日本学生舞踏選手権大会(産経国際ホール) |
第1回関西学生舞踏連盟主催競技会開催 | ||
1957年 | 不明 | 第4回春の東京六大学戦でF、Qが加えられモダン4種目となる |
第5回秋の東京六大学戦から競技会の運営全てを学生の手で行う | ||
1958年 | 榎本助一郎(法政) | 全日本学生舞踏競技連盟発足 |
第1回東都大会学生舞踏選手権大会(工学院大ホール) | ||
1959年 | 不明 | |
1960年 | 不明 | |
1961年 | 不明 | |
1962年 | 小林一夫(東大) | 日本学生舞踏連盟発足 (関東八大学主将連絡会議終わる。連盟再発足) |
第1回全日本学生舞踏新人戦(新宿四谷公会堂、今のモダ新) | ||
第1回東明新ダンスフェスティバル(新潟大学) 東大、明大、新大 | ||
第1回明法立三大学対抗舞踏競技会(明治、法政、立教) | ||
1963年 | 三木一郎(早大) | 第1回全日本学生選抜舞踏選手権大会 (1〜3回まで都知事杯争奪学生舞踏選手権大会) |
連盟リーダースキャンプ始まる | ||
連盟アマチュア規程決まる | ||
第17回秋の東京六大学からフルメンバー出場が実現した 同、フォーメーションダンス、優勝者デモも取り入れられた |
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1964年 | 澄川洋甫(明大) | 全日本学連、アマチュア規定施行(10月) |
競技会運営確立 | ||
1965年 | 上田徹(東大) | 第1回全日本学生舞踏連盟大総会(工学院大学、現在のオリエンテーション) |
(以上委員長) | 女子部発足 | |
東部日本学生舞踏連盟発足 | ||
第1回東部日本学生舞踏連盟大総会(東京文化大学)4月29日 | ||
東部学連に女子部会発足 | ||
第1回学年別舞踏対抗戦 | ||
全九州学生舞踏連盟発足 | ||
関西学生舞踏連盟発足 | ||
名古屋(現中部)学生舞踏連盟発足 | ||
1966年 | 高橋直人(早大) | 全日本学生舞踏連盟新生スタート |
(以下理事長) | 全日本学生舞踏連盟会長に東京大学教授星野昌一先生就任 | |
西部日本学生舞踏連盟発足 | ||
第1回東部日本学生舞踏ラテン戦 | ||
第1回国公立戦 | ||
第1回東西対抗学生舞踏選手権大会 | ||
1967年 | 俵徹太郎(早大) | 全日本学生舞踏連盟会長に早稲田大学教授伊藤安二先生就任 |
第1回東部日本学生舞踏選手権大会(後楽園ホール) (前年全日本順位奇数A、偶数Bブロックの2試合で縦割り制、フォーメーションはオープン競技でスタート) |
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東部学連に小委員会発足 | ||
第1回西部日本学生舞踏選手権大会(春、名古屋) | ||
1968年 | 三輪正昇(早大) | 全北海道学生部当連盟が発足、全日本に加盟 |
東部学連理事OB会発足 | ||
東部連盟機関誌「東舞」創刊 | ||
1969年 | 加藤武(慶大) | 全日本学連、パートナー規定施行 |
第4回東部日本戦からフォーメーションは正式種目 | ||
東部学連、スタジオ解禁1年秋新人戦以降からと規定 | ||
第1回独協大学招待アマノカップ | ||
1970年 | 原藤輝男(早大) | 第6回東部日本戦でA、Bブロックを一体化(横割制) |
現在の様に春は全校戦で1部、2部選出方式、秋は1、2部戦 | ||
東部学連、新人戦に規定フィガーを採用 | ||
第1回東部日本学年別対抗戦に初めてOB審査を導入する | ||
1971年 | 吉田真治(早大) | 全東北学生舞踏連盟が発足、全日本に加盟 |
第1回東部日本学生舞踏ラテン2種目戦(規定フィガー採用) | ||
第32回春の東京六大学戦からフォーメーションを正式種目に採用 | ||
第1回日本大学招待桜門舞踏選手権大会 | ||
1972年 | 秋葉悟(明大) | 第17回全日本戦からルンバ、チャチャがオープン種目 同、1種目1カップルのエントリーになる |
東部日本学生舞踏連盟OB会発足 | ||
第1回東京六大学Jr舞踏選手権大会 | ||
1973年 | 菜花則夫(日大) | 東部日本学連、連盟OB会審判部のOB審査を各競技会に導入 |
第1回東部日本学生競技ダンスラテン新人戦(前ラテン2種目戦、工学院大学八王子)11月23日(祝) | ||
第13回秋の東部日本戦からルンバ、チャチャがオープン種目 | ||
東部日本学連、女子部会独立 | ||
第37回秋の東京六大学戦からルンバ、チャチャがオープン種目 | ||
1974年 | 河合憲昭(慶大) | 東部日本学連、ルンバ、チャチャが正式種目に採用 |
第14回春の東部日本戦からルンバ、チャチャが正式種目 | ||
東部学連、スタジオ解禁1年秋新人戦以降から2年春新人戦以降へ | ||
第1回東京六大学競技ダンスJr選手権大会 | ||
第1回松前重義杯争奪学生舞踏大会 | ||
1975年 | 国保恵昭(慶大) | 全日本学生舞踏連盟に中国支部と四国支部が出来る |
全日本学生舞踏連盟機関誌「翆嵐」創刊 | ||
第13回全日本選抜戦から東部戦の18位までが出場権獲得 | ||
第40回春の東京六大学戦からルンバ、チャチャを正式種目に採用 | ||
第1回七帝対抗舞踏選手権大会(東京女子短大)11月3日 | ||
1976年 | 秋山卓美(慶大) | 西部日本学連から名古屋地区が独立、中部日本学生舞踏連盟に |
西部日本は関西学生舞踏連盟に改称、中部日本は全日本に加盟 | ||
1977年 | 西村哲夫(慶大) | JADA(日本アマチュアダス協会)誕生 |
学連も構成団体の一員となる | ||
1978年 | 坂本武夫(慶大) | |
1979年 | 前田弁三(慶大) | 第1回東部日本学生舞踏ジュニア選手権大会 (春季学生舞踏新人戦と学年別戦を統合) |
第35回モダ新から年1回秋開催 | ||
第1回ツバメ杯争奪競技ダンス選手権大会(東京工業大学招待戦) | ||
1980年 | 足立充弘(慶大) | 第1回明法立三大学競技ダンス大会、再スタート(明治、法政、立教) |
1981年 | 岡穀一郎(慶大) | 全日本学連、ルンバ、チャチャチャを正式種目に採用 (第19回全日本選抜戦、第26回全日本選) |
競技会にビデオ撮影をする大学が増える | ||
1982年 | 鈴木直(慶大) | 第1回白門競技ダンス選手権大会(中央大学招待戦) |
舞研ロゴの入ったトレーナーが流行る | ||
1983年 | 不明 | 全日本学生舞踏連盟会長に慶応義塾大学教授(当時)人見康子先生 同名誉会長に早稲田大学名誉教授(当時)伊藤安二先生が就任 |
第28回全日本戦がテレビ東京で放映される | ||
第56回春の東京六大学戦からサンバをオープン種目に採用 | ||
1984年 | 山野久生(早大) | 全日本学生舞踏連盟から全日本学生競技ダンス連盟に改称 |
連盟主催、後援試合も舞踏選手権から競技ダンス選手権に改称(例:東京六大学競技ダンス選手権大会) | ||
第29回全日本戦がフルバンド演奏からレコードに変わる | ||
第35回秋の東部日本1部戦からサンバがオープン種目 | ||
第59回秋の東京六大学戦からラテン種目のサンバを正式種目 | ||
1985年 | 鳥之海三郎(明学) | 第23回全日本選抜戦からサンバがオープン種目 |
第30回全日本戦からサンバがオープン種目 | ||
東部日本学連、ラテン種目のサンバを正式種目に採用 | ||
第37回秋の東部日本1部戦からサンバが正式種目 | ||
第1回レインボーカップ(明治大学招待戦) | ||
1986年 | 松坂道夫(慶大) | 第24回全日本選抜戦で京都大学が優勝(初めて優勝カップが箱根の関所から西に渡る) |
第31回全日本戦で京都大学が優勝(初めて優勝カップが箱根の関所から西に渡る) | ||
1987年 | 高橋秀尚(立大) | オックスフォード大学ボールルームダンスクラブの8選手来日 |
大学及び競技会(全日本選抜戦)で日英親善を深める | ||
ラテン用学生服出現(いわゆる短ラン) | ||
1988年 | 葛西紀夫(立大) | 東京六大学の5カップル、イギリスを訪問 |
各地で日英親善を深める(3月) | ||
第67回秋の東京六大学戦、燕尾服、キャットスーツ着用で挙行 | ||
1989年 | 中久木哲弥(慶大) | 全日本選抜戦が初めて関西(神戸市中央体育館)で開催される 以後関東、関西交互に開催 |
1990年 | 大北泰弘(東洋大) | 全日本学連、サンバを正式種目に採用(第28回全日本選抜戦、第35回全日本戦) |
春の六大学戦より応援者の服装が学生服からスーツに変わる | ||
1991年 | 中村幸則(慶大) | 全日本学連、ラテン男子のコスチューム改革 |
白シャツに黒ズボンとして正式採用 | ||
学生ダンスの基本5原則が「学生服の着用」がとれて4原則となる | ||
東明新30周年記念大会(新潟市) | ||
1992年 | 堀越司(一橋大) | 全日本学生舞踏連盟会長に東京大学助教授(現教授)浦環先生就任 |
同名誉会長に慶応義塾大学教授(当時)人見康子先生就任 | ||
全日本学連、競技会にフロアパネルを導入 | ||
第70回秋の東京六大学戦でパソドブレ・エクシビション | ||
第5回レインボーカップで横浜市中区老人会にダンスの講習会 | ||
1993年 | 英真輝(慶大) | 『大学入学後4年間』の連盟員規定を『入部後4年間』に変更 |
第38回全日本戦からパソドブレがオープン種目 | ||
第52回春の東部日本戦からパソドブレがオープン種目 | ||
1994年 | 一沢秀雄(法大) | 東部日本学連、ラテン種目のパソドブレを正式種目に採用 |
第16回東部ジュニア戦からJrの部の成績も団体成績に加算 | ||
第78回春の東京六大学戦から燕尾服を正式採用 | ||
同パソドブレを正式種目に採用 | ||
1995年 | 高木有生(東大) | 秋の東部戦パンフで学連会長の浦先生がインターネット活用を提言 |
日本学連、パソドブレを正式種目に採用 | ||
加盟大学のホームページがインターネット上にオープン | ||
IDSFがIOCの準加盟団体として認可される | ||
1996年 | 川嶋淳司(東大) | 全日本学連、燕尾服を正式採用 |
東部日本学連、燕尾服を正式採用 | ||
第58回春の東部日本戦からパソドブレを正式種目に採用 | ||
第1回東京六大学学生競技ダンス新人戦 | ||
1997年 | 岡崎博行(慶大) | 慶応をはじめ複数の大学で50周年記念パーティーが開催される |
IDSFがIOCの正式加盟団体として認可される | ||
1998年 | 滝澤英治(東大) | 全日本学連創立50周年パーティー・12/13大森ベルポート |
東部日本学連秋の招待試合より男子ラテンに黒シャツ正式採用 | ||
東部日本学連シャドーパートナーのアマチュア戦出場可能となる | ||
1999年 | 津村光春(慶大) | 春の全日本選抜戦より男子ラテンに黒シャツ正式採用 |
東部日本学連春のレギュラー戦より男子ラテンに黒シャツ正式採用 | ||
JADAが新名称 日本ダンススポーツ連盟・JDSF になる(2/7) | ||
JDSFは、(財)日本体育協会より準加盟団体承認(6/22) | ||
2000年 | 辰巳泰英(慶大) | |
2001年 | 山﨑雅光(東海大) | |
2002年 | 不明 | |
2003年 | 田中太朗(獨協大) | |
2004年 | 池田翔(一橋大) | 全日本学連、フォーメーションに燕尾服を正式採用 |
2005年 | 釘貫義久(大東大) | |
2006年 | 神林健(都立大) | 全日本戦(夏)にシャドーカップル出場可能になる |
2007年 | 安武寛之(東工) | 全日本戦(冬)にシャドーカップルが出場可能になる |
ラテシャツ規定の変更 | ||
2008年 | 岸英明(千葉) | |
2009年 | 山崎啓(上智) | |
2010年 | 中根大幾(青山) | |
2011年 | 秋元達哉(獨協) | |
2012年 | 青木智彦(一橋) | |
2013年 | 安井敏高 (一橋) | ラテシャツ規定の変更 |
2014年 | 滝下司 (農大) |